プロローグ
血に塗れていた。
何もかもが。
彼を抱き締めてくれた腕も優しい微笑みをくれた顔も。
もう――ない。
大好きな人たちはどう見ても明らかに事切れていた。
二度と彼に微笑んでくれないし、抱き締めてくれもしない。
最後の温もりだけを残して彼らは逝ってしまったのだ。
届かない場所へ。
そこにあるのは絶望だけだった。
その事実は彼を打ちのめすのに十分だった。
絶望の中、彼は意識を飛ばしていくほかなかった……
1
その日、その街にはじめてきた少女は燥(はしゃ)いでいた。
「ビルがいっぱいだ!」
大好きなアーティストがライブをするというのでわざわざやって来たのである。当然テンションは上がる一方で、開演までまだ時間があったので来たことのない街を練り歩いていた。
ウィンドウショッピングだけでも楽しく、ついついライブ会場よりも離れた場所へと出ていたことに気が付く。
「やだな、調子乗り過ぎちゃった」
少女は慌てて元の道に戻ろうとするが、少し道が入り組んだところに入っていたらしく戸惑っていた。
スマホで場所を確認し、ライブ会場までの道を検索していく。
幸い、そこまで遠くでは無いらしい。
ほっと安心しながら歩き出そうとした時、声をかけられた。
「おっじょーさん」
「え?」
振り返ると男が一人立っていた。
「どうしたの?」
「いえ、ちょっと迷ってしまっただけで」
「そりゃあ、いけないなあ」
「じゃあ、私行かないといけないので」
「送っていってあげるよ」
「いえ、悪いので」
少女は突然の申し出に戸惑い、狼(う)狽(ろた)えてしまう。
こんな時どんな対応すればいいのだろう。
「それとももっと面白いところに連れてってあげようか?」
ニヤリと笑う笑顔がどうにも胡散臭くて、彼女は此処から急いで離れた方がいいと思った。
「あ、あの、結構で……」
だから直ぐさまその場を後にしようとしたのだが、そんな少女の前にぬっと影が現れる。それも幾つもだ。気が付かないうちに囲まれていたらしい。
最初の男は優男だったが、現れた男たちはどの男もガタイがよかった。
「あ……」
「なあに、心配はいらないよ。楽しいことしようってだけだからさ」
優男は相も変わらず彼女の言葉なぞ無視してそう笑う。
「わ、私、用事があって」
それでも必死にそう言い、その場を逃れようと足掻いた。元々気の強い方でもないし、見知らぬ場所でのトラブルだ。上手く対処が出来なくても不思議は無い。
「俺たちといた方が楽しいよお?」
ぎゅっと肩を抱かれ、少女の動きは既に封じられていた。
「だ、だから用事が」
それでも必死にそう言い、逃れようとするが、取り囲まれてしまっていてどうにもならない。しかも人通りが極端に少ない場所らしく、先ほどから誰も通らない。
「遠慮はしなくていいんだよお」
如何にも優しげに言うが、そこに拒否は認めない響きがあった。
「つまんない用事なんて忘れるくらいいいところだからさ」
「そうそう、安心して付いてきてな?」
誰も彼もが彼女を逃す気は無いらしい。
少女は絶望にその身を支配されていくことを感じた。
どうして、どうして? 何が起きてるの?
そう叫びたかったが、それすら出来ない。そのくらい恐かったのだ。
男たちは何処かが違っていた。人の姿をしているが、決してそれが本当の姿ではないことを彼女を本能で感じ取っていた。
そしてそれは残念ながら当たっている。
「さあさ、行こうぜえ」
少女は取り囲まれたまま、男たちに連れて行かれてしまった。
逃げたいのに逃げられない、誰にも助けを求められない、聞こえない悲鳴を上げながら。
その日、少女が一人消えた――忽然と、何の手かがりもなく……
2
彼はずっとそこにいた。いさせられた。
暗がりの中、一人きりで。
存在するのは自分だけで、世界にはないもいないような錯覚すら起きるような場所だった。
窓を開けてみる。
外は見えない。
此処は閉ざされている。
改めてそんなことを感じることが出来た。
そんな時、唐突に家の電気が点灯していく。
誰かが来たのだろう。
それは理解した。
やがて彼の部屋の扉が開く。
ずっと閉めていた扉が。閉められていた扉が。
それは自分の望むべくものでは無いが、いつかは来ることは知っていた。
だから受け入れるしかないのか、それとも拒絶しても許されるのか。答えは決まっているのにそんなことを考えている。
暫くすれば足音がした。よく知っているが、関わりたくもない。しかし相手はお構いなしだ。
「待っていたよ、この時をずっと」
そう語りかけられる声には親しみを感じることはない。向こうも歓迎しているとは思えないが、それが相手の役目なのだから当然なのかもしれない。
黒いサングラスに黒服の出で立ちは個性も感じないし、必要もないのだ。それなのに視線は鋭いのだからただ者ではない。
尤も自分のようなものを扱う奴が普通のわけはあるまいが。
だが、彼の名前も顔も覚えてはいない。敢えて覚えてはいないと言うべきか。
願わくば関わりなど持ちたくなかった、誰とも。
そんな願いは聞き入れては貰えない。
「さてさて、引きこもりも大概にして貰いたいね。もう君も十八歳だしね。大人の対応を頼むよ」
何を言うのやら。
最初にそう仕向けたのはそっちだろうに。
尤もそんなことを言っても通じるわけもない。
こうなるのははじめから分かっていたことだから。
寧ろ、何年も放っておかれた方が奇跡だろう。
「沢渡(さわたり)航(こう)、さあ、仕事の時間だ。妖魔が出ている。狩って貰おう」
男に名を呼ばれるが、自分の名前がそんな名前だったなと思い出す。忘れていたのではなく、呼ばれたのがあまりにも久しぶりだったせいだ。
ふと鏡を目に入ってきた。
そこにいたのは確かに自分の姿。
自分で切り揃えただけの黒い短髪、伏し目がちではあるが、見開けば藍色の瞳。数年前よりは確かに大人となっている身体。
彼が覚えている姿とは少し違っているが、確かに自分だ。
だが、久しぶりに呼ばれた相手が碌でもない。
全くまるで執行人だ。何の? 何のだろう?
妖魔が出た。
確かそう言ったな。
「ああ、仕事ね」
呟き、軽くため息を吐く。そんなことで何となくまだ生きていると実感をした。
「もう封印も必要なかろうから解いてある」
「有り難い限りだね、それは」
勿論それは嫌味だが、相手も理解していることだ。引きこもりも何もそもそもの発端は彼らの張った結界のせいであり、航が出ようとしても難しかっただけのこと。
確かに彼自身がこの場から破壊してまで出たいと思わなかったのもあるが。
何しろ此処は一人でいるには丁度よかった。
とは言え所詮、この生き方しか選べないのだ。観念すべきなのだろう。
自分にはそれしか許されない、許してはならない。
今更ながらに強く痛感する。
己は――生かされているのだから。
決めてしまえば行動するだけだ。
「任務は?」
だからそう尋ねた。
「ああ、僕、一人で構わないんで」
指令だけ聞いて終わらせるつもりが、そうはいかなかったようだ。
「残念だが、それは叶わないな。もう既にパートナーは決まっている」
「どういうこと?」
「言葉のままだよ。もう此処に呼んである」
この男が決まったことと言うのなら言葉どおりであり、既に航に決定権はない。
いつだって彼らは勝手なのだ。
僕らのことなんて駒みたいなものだしね。
自嘲するが、それすら織り込み済みなのだ。
「お前の新しいパートナーだ、拒否は認められない」
「それが命令だと言うなら」
だから静かにそう答えた。
「安心するといい、向こうも似たようなものだ」
そう言って男はほくそ笑み、徐に後ろに視線を投げた。
「妖紅(ヨーコ)・カイソード、こっちへ」
成る程、それが今度の相棒の名前らしい。
名前からして女性?
間もなく現れたのはやはり女性だったが、まるですっと闇から現れた炎のように感じた。
「――!」
美しいな。
純粋に航は感心する。そのくらいインパクトのある姿だった。
年の頃は航よりも少し下に見え、恐らく十六歳くらいだろうか。燃え立つような紅い髪に柘榴色の瞳が印象的だ。紅い髪には左右の一房だけ周囲と色が違っており、それが彼女の印象をより強くしていた。
メッシュって奴だな。でもお洒落でという感じでもないが。
ただ一見スレンダーではあるが、無駄なく全身を鍛えているのは直ぐ分かった。
「彼女は……」
だが、何処か違和感があった。普通の人とは何処か違う。
「流石だな。分かるか? そう彼女は妖魔だ。しかも妖貴と来る」
「妖貴? まさか」
だが、彼女が妖貴であれば納得の特徴ではある。
成る程ね、触覚持ちか。
「彼女は正真正銘、妖魔族上位である妖貴に属する」
この世界には一般には知られていないが、妖魔というものが存在している。
本来はそれらは人に害を為すものたちではない。
そして大別すると妖貴と妖魔というものに区別される特徴があった。
大きな括りで言えばどちらも妖魔だが、妖魔と妖貴の間には特徴の違いがある。
妖魔は人に妖精と呼ばれるようなものから所謂怪物と称される巨大なものたちがおり、その姿も能力もバラバラだ。
妖貴と呼ばれるものには頭部に触覚と呼ばれる特徴があり、それが彼らの強さを示すものになっている。
目前の女性は現時点は人型の姿を取っているからそれがメッシュのように変化しているらしい。
妖貴たちは数は妖魔よりも断然少ないが、能力はずば抜けており、強いものとなれば妖魔千匹に対して一人で戦える猛者もいるという。
その中でも妖界の支配者たる妖貴王に仕えるものたちを六大妖貴と呼び、彼らが妖魔たちを統率していた。
尤も六大妖貴たちの情報については航はそのくらいしか知らない。その他はせいぜい強い連中であり、プライドの高いものたちの集まりという程度だ。
だが、妖界も人間界と同じく一枚岩では決してない。
自分の欲望を満たすために妖魔や人に徒為すために動くものたちも一定数おり、言わばそんなはぐれものを狩るのが航たちの仕事というわけだ。
その名も妖魔狩り。
簡単極まりないネーミングだといつも、感じるが、それ以外言いようもないとも思うのでそんなものだろう。
つまり彼女もこの仕事を熟すというのなら当然、同族を狩ることになる。妖界でならいざ知らずわざわざ人間側にやって来るのだからそれなりに理由は当然あるのだろう。
要するに訳ありと言うことか。
それはそうだろう。自分と組むような相手なのだ、何もない方がおかしい。
むしろ人でない方が有り難い。
「よろしく」
礼儀は守るべきだと教えられてきたのでそこはマナーとして彼女に握手を求めたが、相手は返してこなかった。
「……」
「すまないね。何しろ、この子は有生界(にんげんかい)に来たばかりでね。勝手がまだ分からないんだよ。航、お前が教えてやるといい」
フォローのつもりなのか、押し付けているのか判別しかねるが、何の道、その辺も彼の役目らしい。
「分かったよ。ただし僕の出来る範囲でだ」
「それで構わんよ」
ちらりと男が航に視線を送ると、その目は必ずその役目を果たすだろうと語っていた。
「それじゃあ、あんたは任務を伝えてさっさと帰ってくれ」
「問題ない。既に彼女に伝えてある。では失礼する」
そう言って彼はその場を去っていく。まるで最初からいなかったかのように、影のように消えて。
確実に男の気配が消えてから航は妖紅の方に視線を向けた。
「さて、妖紅さんだっけ、組む以上は相手を信頼して欲しいね」
「……」
自分で言っていてもおかしい台詞だ。
何しろ、航自身が本当にそう思っているかどうか分からないのだから。
「とりあえず改めて自己紹介かな。僕は航、沢渡航。航と呼んで貰っていいよ」
「此方も妖紅で構わない。お前と馴れ合う気はないが、それでもお前と組まねば私も動けない」
返ってきた答えは素気ない。
「それはそれは。当(まさ)にお互い様って奴だね」
僕も一人の方が気が楽なんだよ。
そう思ったが、それは口にはしなかった。そんな本音など誰も必要としていないからだ。
「ではでは、早速だけど任務を聞いても?」
「ああ、構わない。お前に伝える義務が私にはある」
任務には支障を来さない程度のコミュニケーションは取れるようだ。
そこには安心する。
「僕も久しぶりの外なんでね。君の方が詳しいかもしれない」
「? 意味が分からないが」
「言葉の通りさ。まあ、今はネットがあるから便利なもんだけどね」
長い封印の中で彼は完全に外界と遮断されてはいなかった。恐らく航の自我を維持するためだろう。彼らにとっては便利な道具だから失うわけにはいかない。
少なくとも航はそう考えている。
それでも生きねばならないから。
「お前はまるで世捨て人のようにも見える」
「当たらずとも遠からずだね」
三年、もう三年か。
残念ながら時間は止まってはくれない。
彼の体は成長するし、力の抑制もそれなりには出来るようになったらしい。
尤も実際のところは外に出なくては分からないが。
「……任務は」
妖紅は航の様子に少し面を喰らったような様子を見せたが、直ぐにそれは消え、彼に任務を話し出すのだった。